no.15 2000/07/01
目がさめると自分がどこにいるのかを思い出すまでしばらくかかった。
ああ、そうだ、ホテルだ、どこのホテルだ、福岡だった、そうだ,昨日は遅くまで飲んでいたんだった。
テレビが点いたままだった。
ホテルを出て天神の街をただ歩いてみることにした。
夏だった。祭りが始まっているらしい。ネクタイを外したスーツ姿で、目的もなく歩いてみる。
二日酔いだった。それも体に作用しているのではなくて脳に来ているみたいだ。
心ではなく、脳に来ているみたいだ。自分の頭蓋の中でアルコール漬けになって浮かんでいる脳のビジョンが浮かんだりした。
7月の日曜日の午前中は昨夜の狂乱から抜け出した若者たちで溢れている。
僕もその中の一人なんだろうか。いつもならどうでも良いことのように思えることが心に引っかかってはなれない気がした。
目に入るものの意味がわからなくなっている。いつもなら完全に理解できているはずのことがどうしても理解できない気がする。
ただの二日酔いにしては性質が悪いな、そう思った。
舗道を向こうから白い杖をついた老人が歩いてきた。目が見えないらしく、杖で足元を確かめながら、周りの人の半分くらいのスピードで歩いていた。
ああ、このまま行くと街灯にぶつかってしまうよ、そう思って僕は彼と街灯の間に立ってガイドしてあげようと思った。
そうしたら彼は何事もなかったように見事に僕と街灯を避けてまた歩いていった。
なんだ、見えてるんじゃないか。彼には見えていた。それだけのことだった。
目を上げると若者がカバンを肩から下げて歩いていた。
カバンの意味がわからなくなっていた。
女たちが肌を露出して歩いていた。
どうして乳房が二つもあるのか、僕には理解できないようだ。
声を掛けてみれば彼女たちは簡単に僕の疑問に答えてくれそうな気がした。
彼女たちはわかっているんだ、そうにちがいない。
気がつけばなみだめになっていた。
目に涙が溢れてきた。でも流れ出さない、ダムがいっぱいになる寸前の均衡を僕は楽しんだ。
どうして涙腺が作用しているのか、僕には理解できなかった。
なみだめのまま歪んだ映像を理解できぬまま僕は街をふらついていた。
道端の売り子が、お買い得ですよ、と大きな声をあげていた。
お買い得ってどういうことなんですか、僕が得するってことですか、僕が得するってことは貴方が損するってことですか、だったらどうしてそんな大きな声で言わなければならないんですか、あなた、悲しくはないんですか。
違う店では若い女が、いらっしゃいませー、ととてつもない大声で繰り返し叫んでいた。
どうして語尾を延ばして、また音程を少しずつ上げているのか、僕にはわからなくなっていた。
突然頭の中に彼女の声が音符で並んだりした。長いスラーマークで頭の中がいっぱいになってしまった。
そんなにスラーが好きなんだったらベッドの上でもそうなんですか、そう尋ねてみて、次に彼女に頬をはじかれる姿が浮かんでしまい、今度はほっぺたの痺れた感触で頭がいっぱいになって嬉しくなった。
これ以上日差しに当たりつづけたらせっかくの均衡が崩れそうになる気がした。
涙が乾いてしまうような気がしたんだ。
地下街に潜った。ファーストフードでグレープフルーツジュースを飲みながらどうしようか考えていた。
そうしたら窓の向こうで恐ろしく両足を露出した少女がずっとうろうろしていることに気がついた。
どうやら男を待っているようなのだが、ちっとも来ないふうだった。それで落着かなく歩き回っているのだろう。
それにしてもどうして足を出しているんだろう。
僕にはそれが理解できなかった。
映画でも見ようかと思ったけど、こんな状態で見るのは危険な気がした。
それで本屋に行って文庫本を2冊手にとってレジに向かおうと思った瞬間、ポケットの携帯電話が鳴った。
なぜか取引先の医者からだった。
どうしてこいつは休みの日に電話をかけてきて馬鹿なことを言っているんだろう。
僕は理解できないまま、彼の声を聞きながらこいつの治療だけは受けたくないと思った。
ところが僕の言語中枢は完璧な営業トークを準備していたらしく、まるで当たり前な反応を示していた。
自分の能力に恐ろしさにまた涙腺が作用して均衡が回復した気がした。
地下の喫茶店に入りビールを頼んだ。
まるで切れかけたクスリを手に入れた中毒患者のように僕は喜んでバドワイザーをグラスに注ぎ、頭の中で言語を弄んだ。
すべての意味と理由が剥がれて転がっている気がした。
足元に機能の断片が転がって死臭を放っていた。
自分の匂いだと思った。
気がつけば町じゅうに匂いが充満していた。
気がつけば町じゅうに意味が転がっていた。
気がつけば僕は何かから少しだけ自由になった気がしていた。
そして自分の妻に会いたくなった。
少しだけなみだめの均衡が崩れた気がした。
次に目を開けたとき、草原が広がっていた。
サバンナの中で強烈な日差しが僕を照らしていた。
あんなにたくさんいた人間が一人も見当たらず、ただ原始の大地だけが広がっている。
遠くで妻が呼んでいた。
ご飯の時間らしい。
僕は帰ることにした。