no.8 1999/06/28
title:人生はいつも。
人生がどうたら、とうるさい歌詞の曲がひところ流行った。「人は皆〜」という歌い出しの曲なんか耳にした日にゃ、「お前他の人生送ったことあるんか?」とひとり突っ込みを入れてみたりするくらい、そういった「わかってるんだよ」的な曲が嫌いだった頃がある(今でもそうかな)。
考えてみたら、その頃に比べて倍くらいの年月を生きてきた。そうそう大きなドラマなんか無かったような気もするが、それでもいろんな経験をしてきたように思う。それでもまだ「人は皆〜」などという達観した気分は味わえない。それは自分本来の気質なのか、それとも経験不足か、はたまた勉強不足か。いずれにしても、自分のことも分からないのに他人のことなんかわかりはなしない。
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歌謡曲や演歌に自らの経験を重ねあわせ、楽しくなったり、悲しくなったり。そうやって僕らは流行歌への感情移入を通してきて人生を過ごしてきた(人は皆〜というくらい、誰もがそうかは知らないが)。最近ではカラオケの普及で、歌いながら自分を表現するという手段も用意できている。こういうのは「わかるわかる」というタイプの観賞のタイプだ。絵や音楽や文章に接するとき「!」という驚きを持って衝撃の感動を楽しむ場合や、「?」という不思議感覚を楽しむ場合、最後に「そうだよね、わかるわかる」という感覚を共有して癒される場合などがある。
それらのうちどのパターンが良いとか悪いとかそういうつもりはないのだが、流行歌に感情移入する場合、多くは最後の「わかるわかる」パターンである、多分。
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日本人の多くが「近代化」「追い付け追い越せ」という目的を共有できていた頃の文化は加山雄三の若大将シリーズやクレイジーキャッツの一連の映画などのように「新しい」「今までに無い」「日本人離れした」という文化が受け入れられていたように思う。つまり!だ。それらが1980年代に入って変わってきたような気がする。経済的成長が一段落し、バブル絶頂期に突入する直前の頃、私でいうと中学、高校から大学時代の日本の流行歌はおしなべて「わかるわかる」のオンパレードであったのではないか。アリス、さだまさし、松山千春、山口百恵、シャネルズ、浜田省吾、尾崎豊・・・異論反論はあるかもしれないが、いずれにしても音楽的な新しさなどよりもむしろ、「聴衆の心を捉える」とか「誰もが思うことをストレートに表現した」などという評価を得て表舞台を闊歩した音楽家達であった。
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1990年代も終わりに近くなり、世相はノストラダムスも逃げ出すくらいの荒れようである。自殺者の数が年間1万人を超え、世界中のあちこちで戦火が燻っている。経済的な豊かさと人生の目的とをリンクさせている人々などなどもはや存在しない。様々な情報が飛び交い、今までの価値観を根底から疑え、と世界中が叫び続けている。洗脳する人とされる人の区別が曖昧となり、善意と下心の区別すら容易に判別できないことが普通であるとすら考えられている。
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このような時代を表現するのはどのような音楽なのだろう。コムロ?ウタダ?それともサカモト?
いやちがう、どれもが代表することなどできないのじゃないか。
そもそも「代表する」という概念がこの時代と合わなくなってきつつあるような気がする。
一丸となっていた国民、世代、群集は分裂し、日本人、というまとまり感も戦争でも始らない限り希薄となってきた。必要とされないものは不要であり、しかし存在し続けるがごとく様々な価値観や芸術文化が雑然と氾濫し、それらが存在する場としてのインターネットが、あたかもかけがえの無いもののようにもてはやされている。
このような空気の中で「人は皆〜」などと歌ってみせても、それは悪い冗談のようにしか響かないだろう。
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「次の時代はこうなる」「これこそが21世紀を担う文化だ」などという表現そのものが冗談になりつつあるのだ。
時代、世代、という共有意識が無意味になっていく。人々が孤立化し、それぞれの基盤が全く異なる次元で再構成されつつある。
何か寂しい気もするが、これが自分達の生きる空気である。そのような中で、それでも僕らは音楽や文学などの芸術に、今まで以上に頼っていくことだろう。それらがどのような様相を呈するのかは、これからの見モノだ。
多大なる興味と興奮を持って、それらを追っかけていきたいと思っている。
そして、ふと寂しくなっときでも心配することはない、街中にカラオケボックスがあるではないか。
そこには懐かしく、落ち着ける70年代、80年代が息づいている。
我々はそこで2、3時間を楽しく過ごし、そして分厚いドアを押し開き21世紀に帰っていくのだ。
何と恵まれていることだろうか。
そうやって、現在を、未来を、僕らは生きていく。
Taka
end