no.5 1999/05/17
title:パソコンと営業車との関係
たまには仕事絡みの話でも。
数年前にノートパソコンを社員に1台ずつ配布し、ロータスノーツでネットワークを組んでみたら、我々の業界ですっかり話題になってしまった。ちょうどIT(Information Technology)革命などがもてはやされ、また今ほど不況の波がひどくなかった頃だったせいか、いろいろな方面の方から取材や問い合わせをいただき、私もすっかりその方面の「通」ぶっていた時期だったように思う。
それから数年。
私は自分の会社を皮切りにここ数年でこの業界に情報化の波が一気に進むものだと予想していたのだが、今のところそうでもない。むしろ「ブームは去った」と見る向きも出てきたくらいだ。
だがしかし、未だに当社へのネットワークに関する質問が絶えないし、仕入先などもノーツの採用が相次いでいるとのことだ。
だとすれば、これらの動きは「情報化の流れを不況が押し留めている」と見るのが正しいのだろう。
ところで、「情報化に対応できた営業マンは成功しているのか」というきわめて本質的な問題に関して、一般の雑誌などではあまり触れられる事はないように思う。たまにあっても非常に楽観的な、あるいは現場を知らない意見(観測?)に終始しているケースが多い。
そこでここでは経験上私が感じたことを書こうと思う。
我々営業、あるいは流通の世界に「営業車」という武器がもたらされ、仕事の手法を一新した時期はおそらく昭和40年代であろう。それまで国鉄と、自転車+商人宿という組み合わせで成り立っていた地方営業は、営業車の登場によって、一挙に変貌したのである。
業態によっても異なるだろうが、我々の歯科流通業界で言えば、月1回の訪問、1日数軒の営業、1ヶ月分をまとめて受注し納品、というスタイルから、毎週の訪問、1日10軒以上の営業、その日に無くなった分を受注し補充、という形になり、また商圏が飛躍的に拡大した事によって同業他者との競争が激化、価格競争、納期競争、訪問頻度競争へと突入していった。それらの原因のすべて、とは言えないが、営業車の登場は大きなインパクトをもたらした筈である。
平成10年代におけるパソコンと情報化のインパクトもその「営業車」に匹敵するものではないか、と私は考えている。おそらくはインターネットなどとの融合により商圏はさらに拡大し、月1回から週3回に増加した受注機会も1時間おきくらいのスパンとなるだろう。その逆に営業マンが1軒1軒訪問して商売して行く、というスタイルは徐々に縮小し、以前のような月に1度、1日数軒という営業に戻っていくような気がしている。つまり商流と物流と情報の流れが分断され、より余裕のある人間的な営業が戻ってくるのではないかと期待もしているのである。
営業が雑用や小間使いの役目から開放され、従来の情報の取捨選択や有効な提案、それらのメインテナンスによって顧客の繁栄をサポートするという本来の役割を発揮できる世の中を実現するのが、これからはパソコンやネットワークなどの情報機器であるだろうし、そうあるべきだ、と考えている。
ところで、パソコンやインターネットを機関銃のように扱える若者が増えてきたが、彼らは今後の世の中で成功が保証されたも同然、という事だろうか?
私はそうは思わない。
例えを変えてみると、「営業車の運転がずば抜けてうまいものは顧客の信頼を得、いつでも営業成績がトップである」と言っているようなものである。現実にそのようなことは、ない(もちろん、営業のうまい人は運転も上手いものだけど、それは順序が違う)。
所詮、道具に過ぎない、ということだ。
営業車にしても、情報機器にしても、つまりは目的の為にある、道具に過ぎない。
道具を使いこなせないものは目的を達成する為に莫大な労力を必要とするだろう。だが、それでもいつかは達成する時が来るかもしれない。
しかし、道具を使いこなす事にいくら長けていても、目的を達成する気のない人は、いつまでもそのままだろう。
手段と目的を混同してしまうと、いつもこのような逆転を演じてしまう事になる。
営業車にしろ、情報機器にしろ道具を楽しく有利に使いこなし、本来やるべき事をやる為の時間を生み出したものが、いわゆる「成功」というものを手にする事ができる、そう思う。
最後に。
車を愛でる人々がいる。単なる移動の手段に過ぎない車に愛情を傾け、歴史を作り、果ては自分で製作したり、サーキットで走り回ったりする人々である。
私はそういう人たちが大好きである。
同様にパソコンやネットに入れ込む人たちがいても良いと思う。
石器時代の昔から、人間はそういう風にできている。
「いかんいかん、本来はこんなことしてちゃいかんのだが、でもついつい熱中してしまってさ」
そういう人間こそがARTを生み出してきたんだろうし、ひょっとしたら人間という生物自体にもともと「最終目的」などプログラムされていないという気もする。
目的と手段、という時の「目的」とはあくまで20世紀の資本主義における定義である事、も忘れるわけにはいかないのだよね。
Taka
end
目次へ
HOME