no.2 1999/04/26
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宗教的輪廻と車の買い換え
最
初に断っておくのだが、私には特定の宗教を信じているということはない。
実家は浄土真宗だけど、幼稚園はカトリックだったし、結婚式は神前であった。おそらく死んだら仏教で火葬だろう。
典型的現代日本人というところだ。
そ
ういう私だが、この間少し暖かな3月の午前中、車を走らせている時に、田舎道を走る対向車と、それを運転しているドライバーをぼおっと眺めているうちにあることに思い至った。
前の日にダライ・ラマの輪廻転生の本を読みながら寝たのがいけなかっただろう、つい死について考えてしまったのだ。
それと自分が関わっている「医療」ということについて、なんだか根本的な疑問を抱いていた時期だったのも重なっていた。
輪廻転生
とは、良く言われるように前世、後世、と魂が体の死を超えて永続していく、という考え方のようだ。
しかし、現在生きている自分にとっては前世の記憶などというものは当然持っていないわけで、いわば一度死んでしまわないと実証されない話でもある。死んでしまって存在その物が無くなる、つまり輪廻転生など有り得ない、という立場になってしまうと、死んでしまってからはそれを立証することすらできないわけで、要するに現在生きている人間で、あるいは過去に生きていた人間が生きていた時代に書き残した書物では絶対に科学的な立証ができない世界でもあるわけだ。
そのようなことを考えつつ、対向車を眺めていたのだ。
そ
の時、閃いたのだ。
輪廻転生を繰り返す魂とは、車を運転するドライバー
にたとえる事ができる。
とすれば、
彼が運転する自動車とは、すなわち現世の身体
である。
そ
うか、人が死ぬ、ということは魂が運転している車が廃車になってしまうことなんだ。
車にとっては、そこでジ・エンドだ。
ところが、運転手は、すぐにでもディーラーの所へ行って新しい車を買ってくる。
そうして何事も無かったように新しい車を乗り回す。
車にとっては、過去の車の記憶やら運転手が以前行った景色など、憶えているはずも無い。
ただ、所詮運転手は同じだから、つい同じような道を通るし、同じ癖で運転するし、同じ場所に遊びに行ってしまう。
車に意識があるとしよう(運転手とは別に)。しかも、車の意識から、運転手の存在は、全く解らないとする。
車は自分自身で走りまわっている、としか認識できない、のである。
あ
る日車は悩むのである。
俺は壊れてしまって廃車になる時がいつか来るのだ。
その時、どこへ行ってしまうのだろうか?
そもそも、俺は何のために走っているのだろう?
そしてどこへ行こうとしているのだろうか?
実
際に車が壊れてしまうと、事は簡単で、スクラップになってしまう。
(この際中古車市場は無視しようぜ)
リサイクルされて、何らかのお役に立てるかもしれないが、車の意識は、そこで多分終わりだ。
こ
れを人の死にたとえてみるとする。
人は車の意識しか持ち得ていない。
そして、運転手の存在は認識できない。
悩みはさっきの車と同じだ。
どこへいくんだろう?死んだらどうなるんだろう?
そ
してある日死んでしまうのだ。
うまくいったら微生物が分解してくれて、また何らかの形で再生するが、意識の再生はないだろう。
(同じく、この際中古車市場のこと、いや、臓器移植のことは無視しようぜ)
で
はこの場合の
運転手
とはいったいどのような存在か?
魂?神様?利己的遺伝子?
その答えを車に出せといわれても、無理だろう。
次元が異なるのである。認識できないのだ。
では「
医療
」とは?
車が事故を起こしたり、耐用年数を過ぎて故障を起こしたとしよう。
車自身では修理できない。しかし車の世界にも医者がいるのかもしれない。
そこで、駐車場で車と車の医者がが話し合うのだ。
「このエンジンとかよくできてるよな。ホントまるで誰かが設計したみたいだ。しかも70年式に比べて90年式は明らかに環境に適した構造になっているんだ。これこそ正常進化だよ。不思議だよなあ。やっぱり神様が作ったのかなあ」
実際はエンジニアが設計して工場で作っているのだが、自動車自身からそれは、認識できない。
我
々の医療もそうなのかもしれない。
医療や科学も究極まで追及すると、そこで神の存在、すなわち設計者の存在が見え隠れしてしまって多いに学者を悩ます、という。
単純に機能を優先したり、売れる、という理由だけで設計された自動車も、自動車自身から見たら、神秘としか見えないことだろう。
さて、私は何を言いたいのか。
我々は自動車に過ぎないのかもしれない。
つまり、道具に過ぎないのかもしれない。
だったら、それで良いじゃないか。
気楽に生きていこうぜ。
そしていつかは自分の構造を理解できるようになろう。
その構造、設計思想が理解できたら、今度は自分自身が道具を設計して作る番だ。
それにしても、所詮道具さ。悩んだり、自ら死んだりする必要なんか無いさ。
へたくそな運転手にあたってる、と感じたら、せいぜい文句言ってやろうぜ。それだけさ。
そんなことを考えつつ、春の田舎道を走っていた。
翌週、親友が死んだ。
おそらく一生で一番悔しい思いをしたと思う。
でも、私は死なないよ。
自動車には、その権利も、その必要も、無いことがわかったからね。
最後に、私は輪廻転生そのものについては、否定的だ。
Taka
end
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