no.1 1999/04/19
title:財布の中に予備タンク
ガソリンが底を突きそうな状態で車を運転した経験は、誰にでもあると思う。
そういう時でも、余裕を忘れない人もいるのだろうが、私の場合は、なんとなく自分の体も元気が無くなり、そわそわし、不安になり、2分に一度燃料計に目をやり、言葉数まで少なくなってしまい、「ああ、俺のエネルギー源もガソリンだったか」と呟いてしまうのである。
同じようなことが出かけた時の財布の中身にも当てはまる。
賑やかな街に出かけた際に、ふと自分の財布を取り出してみて、中身を確かめてみる。
「あれ、1000円しかないや」。
途端に気分が縮小する。欲しい商品が目に入らなくなり、立ち読みしていても落ち着かず、なんとなくお腹も空かず、奇麗な女の人も別世界の住人のように感じてしまう。なんだかドロボウになった気分だ。
最近はクレジットカードも持っているので、そこまで深刻になることはないのだが。
冒頭のガソリンの例では、原付バイクなどには予備タンクがついているタイプがあって、これはずいぶんと良いアイディアであると感心したものだ。車では燃料切れ警告ランプが点灯したりするわけだが、やはり実際ガス欠した後でも「実は予備があるんだよね〜」という現物主義にはかなわない。もうとてつもなく頼りになる相棒なわけである。
ということで、最近では自分の財布の中にも常に1万円札を予備タンクとして、折り込んでおくことにしている。
クレジットカードを入れるポケットに4つ折にして入れておくのである。
もうこうなったら、人間が変わる。通りの向うからコワソウなニイサンが歩いてきても別に恐くないし、食堂に入る時もいちいちサンプル模型で値段を確認し、メニューを決めて、消費税の計算まで終えてから店に入る、という手間もかけずに済む。
別に「余裕を持てば人間は変われる」とかいう某ベストセラー元子役作家のような事を言いたいがために、これを書いているわけではないぞ。
はたしてそこまで僕の気分を変えてしまう、お金というものは何なんだ。
ガソリンのエピソードとの共通点があったということは、お金は生活におけるガソリンのようなものだろうか。
確かにガス欠の車は鉄屑同然だ。
ということはお金の切れた生活はクズ同然ということになるのだろうか?
また、生活費を多大に消費するお金持ちたちは燃費の悪い高級車、月5万円でも生活していける人は軽自動車並みの効率を誇っても良い、ということなのかなあ。
そう考えると、どうもそういう気がしてきた。燃費は良いにこしたことはない。
でも、車なんていったん壊れてしまって1ヶ月くらい経つと、もう不便を感じなくなるものだ。
要は移動のための箱なんだし、はたして移動すること自体が絶対に必要だというわけでもないことに気がついたりもする。
同じように今の生活レベルもいったん壊れてしまったら、それが普通になってしまうのだろう。たまに海外に出ると、痛烈にそう感じる。
海外、特にアジアに行って3日も経つと、日本での生活レベルが、どうしようもなく不自然に思えてしょうがなくなってくるのだ。
(そんなに良い生活をしているわけではありません、念のため)
ガソリンが車の燃料であり、車は移動のための手段であるとしたら、お金は生活の燃料であり、生活は...あれ、何のための手段なんだろうか?生活の目的って何なのだろう?
手段が目的化してしまい、意味の無い行動に多大なエネルギーを注いでしまっている、というケースが良くある。
(会社における会議、それも「今月の議題は会議を少なくするためにはどうしたら良いか、というものです」というケースとかね)
はたしてお金とは手段なのか目的なのか。
えらく大きなテーマになってしまったので、そう簡単に結論を出せそうにない。
それまではやはりお金に依存して、財布の中に予備タンクをこさえる日々が続きそうだ。
いや違う、僕はお金に縛られたくないから、予備タンクを作っているのだ。
そう強がりを言ってみても、お金にひざまずいている事実には変わりないのだろうが。
Taka
end